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「YELLOW
JACKETS結成までの裏話と予想外のニューヨーク生活」
PCI:その後、スタジオワークでは大活躍をされ、バーバラ・ストライサンド、バート・バカラック、ケニー・ロギンス、バリー・マニロウ、マイケル・マクドナルド、リトル・フィートなどのアルバムで歯切れの良いギタープレーをされてますね? このあたりも、うちのサイトの読者から指摘されています。
Robben:そうですか。 それは有り難いですことですが、その頃のスタジオワークはあまり自分自身では良い出来とは思ってないんです。 とにかく、まだ若くてギタリストとしては経験が浅く未熟だったんです。 突然色んな音楽をスタジオでやることになり、その頃の私の力量では、正直言って満足いく出来とは言えません。
PCI:多分日本のオーディエンスは、誤解しているかもしれませんね? 是非今日は本音を聞かせて頂けると有り難いです。
Robben:多くの人達は、当時、私がLAのスタジオギタリストとしての仕事を好んでメインでやっていると思っていた様でした。 実は違って、その頃から本当にやりたかったのは自分のバンドで自分の音楽を表現することだったんです。 自分で曲を書き、レコードを創り、ツアーに出る、ずっとこういう活動をしたかったんです。 でも、それをその当時することは難しかったんです。生活するためには働かなくてはなりません。
PCI:アーティストとしての活動、生活のための音楽活動、難しい問題ですね。 
Robben:それだけでなく、自分自身の能力もその当時問題でした。 色んなスタジオワークを引き受けました。 もちろんさっきあなたの言った、著名アーティストの仕事の依頼を断ることなど出来ません。 いくつかの仕事は80年代の前半にまたがっていますが、ほとんどは70年代の仕事です。 特にLA
Expressの仕事をした時は、私はまだ22才の単なるちょっとコードを知ってるだけのブルースギタリストだったんです。 ずっとスタジオワークでは正直言って心地よくありませんでした。 実際80年代の中盤頃になるまではスタジオワークで、他のミュージシャンと気持ち良く出来るだけの余裕は全くありませんでした。
PCI:あなた程の人でも慣れるのにそれだけ時間がかかったんですね?
Robben:その通り。 1974年から10年かかってやっと慣れたんです。(笑)
PCI:そうでしたか。 珍しいところでは、KISSのアルバムで2曲程ソロも弾いてみえますよね?
Robben:はい、よくご存知で。(笑)
PCI:それはいつでしたか? KISSの誰かから依頼されたんですか?
Robben:KISSのプロデューサーに依頼されたんです。 確か1981年のことだったと思います。 多分KISSのメンバーの人達は私のことは全く知らないと思います。
PCI:そして、1978年にご自分のアルバム「THE
INSIDE STORY」を発表されましたね?
Robben:1979年だったと思います。
PCI:日本では、「ギターに愛を」という邦題が付いて大ヒットしました。 うちのサイトの読者によると、フュージョン系ギタリストのお手本とも言えるギタープレー、見事なリズムアレンジで絶賛され、今でもこのアルバムが大好きというファンが多いということです。 なんとプロデューサーがスティーブ・クロッパーですよね?
Robben:この選択は意外でしたよね。 私の顧問弁護士が、ジミー・ウィザースプーンのプロデューサーの弁護士もやってたんです。 そのプロデューサーと私の顧問弁護士がスティーブ・クロッパーのプロデュースを提案したんです。 最初は突拍子もないアイデアだと思ったんですが、考えれば考えるほど面白いと思うようになったんです。 ジャズ、フュージョンレコードにR&Bのスティーブ・クロッパーを持ってくるというのは、考えてみれはエキサイティングですね。 スティーブは本当に楽しい人でした。
PCI:実は、7月にNAMMショーでナッシュビルへ行った時、スティーブ・クロッパーがDock
of The Bayを弾き語りで歌ってくれたのを見たんですよ。
Robben:彼が歌ったんですか?
PCI:NAMMショーを記念して、たくさんのギタリストがナイトクラブに集まった特別企画のショーだったんですが、本当にスティーブが歌い、ギターソロもあり、口笛まで吹いたんです。(笑)
Robben:それは是非見たかったなあ。(笑)
PCI:そして、1980 年にYellow Jacketが結成され、アルバム「Yellow
Jackets」を発表されました。 これもフュージョンの傑作ですね。 このアルバムでのプレイは、ソロもさる事ながら、リズムカッティングも実にお見事で、溜め息が出るとの声がうちのサイトの読者からあるんですよ。
Robben:そうですか? 有り難うございます。 自分としてはまあまあってとこだったですが。
PCI:それから、1981年には、モントルー・ジャズ・フェスティバルに「ワーナー・ブラザース・オールスターズ」の一員として参加されましたね。 日本のファンによると、このオールスターズの演奏は「CASINO
LIGHTS」というアルバムで後に発売されましたが、ここでYellow Jacketsのギタリストとして物凄いプレイをされているとのことです。「Monmouth
College Fight Song」でのSAXのようなソロ・プレイはあなたの特徴をよく表しているとのことです。
Robben:有り難うございます。 この曲についてはおもしろいエピソードあります。 Yellow
Jacketsとして10日間のツアーをしていたんですが、この曲は我々にとって全く新しい曲だったんです。 ご承知の通り、当時モントルー・ジャズ・フェスティバルというのは大変エキサイティングなビッグイベントでした。 残念ですがこんな凄いイベントはもう最近無いですが。
PCI:どの様に凄かったんでしょうか?
Robben:とにかくステージに立つと、その会場の観客のエネルギーとパワーが伝わって来るんです。 ステージに立つだけで皆プレイヤーが熱くなるんです。 回りを見渡せば、グレートミュージシャンが皆側にいるじゃないですか。 今まで生きてきてとにかく最高のフェスティバルでした。 その時共演したミュージシャンに聞くと皆同意してくれますよ。 で、「Monmouth
College Fight Song」の話に戻りますが、ステージへ行って、この曲をやることになった時、リハでふと気が付いたんです。 「私はこの曲のコード知らない。」って。 とにかく聴きながらこの曲を物にしようとしたんです。 そして、まだ全部覚えきらないうちに、本番が始まり、ライブレコーディングも始まり、スポットライトが私に来て、この曲が始まったんです。 私は心の中で叫びました。 「I
DO NOT KNOW THE CHORD!!(コード知らないんだ!!)」って。(笑) 冷や汗ダラダラでした。
PCI:本当ですか、それは大変だ。(笑)
Robben:とにかく弾くしかありません。 そんな中で弾いた曲なんです。 よく聴けば私が聴きながら演奏しているのが判ると思いますよ。 とにかく回りの音を聴きながら、素早く対応してプレイしていますが、実際のところ、私はこの曲知らなかったんです。(笑)
PCI:これこそ本当の裏話ですね。(笑) でもそういう状況下だったので、結果的によけいに緊張感のある素晴らしいプレイになったのかもしれませんね。さて、Yellow
Jacketsはもともとあなたのアルバム「THE INSIDE STORY」を録音する時に集まったメンバーで結成されていますよね。 このメンバーはどの様に集まったんですか?
Robben:ラッセル・フェランテ(Russell Ferrante)とは昔からの友人だったんです。 サンフランシスコにいる頃から。 彼はSanJoseというサンフランシスコに近い町に住んでいました。 自分のアルバムのレコーディングをすることが決まった時、まず彼に電話してLAに来れないか頼んだんです。 彼のキーボードプレイヤーとしての実力も知ってましたし、是非彼とは一緒にやりたかったんで。 彼はすぐ引き受けてくれLAに来てくれました。 また、その頃私はフローラ・プリムのツアー・マネージャーをやっている人と同居してて、彼からベースのジミー・ハスリップ(Jimmy
Haslip)とドラムのリッキー・ローソン(Ricky Lawson)を紹介されたんです。 彼等はその頃フローラ・プリムと演ってたんです。 彼等と会って、特にジミーのベースを気に入りました。 それで一度ジミーに家に来てもらってジャムったり、話をしてアルバム製作を手伝ってくれることになったんです。 リッキーはその頃他の仕事が入っていたので、LAでラッセルと一緒に他のドラマーを捜したんです。 
PCI:ラッセルはあなたのお陰というかあなたのせいと言うかでLAに引っ越ししてたんですね?(笑)
Robben:その通り。(笑) でもラッセルもSan Joseを脱出してLAに来たかったんですよ。 私が誘ったのは彼にとってもLAに来るいい口実だったんです。(笑) で、しばらくドラマーを捜しているうちに、リッキーの仕事が終わり、ジミーが再度彼に声をかけてくれ一緒にやれることになったんです。 最初の私のアルバムのレコーディングは本当にエキサイティングなものでした。 このメンバーで続けようと思ったんですが、ジミーとリッキーにアルジャロウの仕事が入ってしまって忙しくなったんです。 その頃アルの仕事は高報酬でしたから、Good
Byということになったんです。(笑) で、その後、ラッセルと別のリズムセクションとで5週間位「THE INSIDE STORY」のプロモーションツアーに行ったんです。
PCI:そうでしたか。 それで、Yellow
Jackets結成のいきさつはどうだったんですか?
Robben:ジミーとリッキーが戻ってからまたLAの色々なところでコンサートを彼等と一緒にやったんです。 その頃私のマネージャーが、バンドの活動は全く別にしたほうがいいと提案したんです。 私は自分のレコードでブルースやR&Bなどボーカルのある音楽を始めた訳です。 本来やりたい音楽活動を始めたので、それをRobben
Fordのメインの活動と名実ともに位置づけた方が良いというのがマネージャーの意見でした。 インストのフュージョン音楽のライブはどちらかと言えばあまり私の本来やりたいことでは無かったんです。 私としても、シンガーとしてソングライターとして自分自身を高めたかったんです。ただ、マネージャーとしては、インストのフュージョン音楽のギタリストとしてのプレイも、多くのファンがいるのだから続けるべきだと、辞めちゃダメだと。(笑) ただ全く分けて活動すべきだとアドバイスしてくれたんです。
PCI:ファン思いの立派なマネージャーだと思います。(笑)
Robben:結局、Yellow Jacketsでは最初のアルバムから私はゲスト扱いにしてもらい、レコード会社との契約も私自身とは全く別個のものにしてもらいました。 私は自分の作品に対して、別のレコード会社と契約しましたから、Yellow
Jacketの正式メンバーとしては契約上も加われないことになったんです。 単なるゲストミュージシャンということです。
PCI:なるほど。 敏腕マネージャーのマーケティング戦略も背後にあったんですね。 その後しばらくニューヨークに活動の場を移されましたね。
Robben:はい。1986年から1990年まで4年間でした。
PCI:ニューヨークでもスタジオミュージシャンとしての仕事をされたんですか?
Robben:いいえ、全くやりませんでした。 ただライブはよくやりました。 そこで、マイルス・デイビスやデビッド・サンボーンと一緒にプレイする機会があったんです。
PCI:なぜ、ニューヨークへ引っ越されたのですか?
Robben:その頃、あまりLAは居心地よく無かったんです。 Yellow Jacketの仕事を終え、また自分のR&B、ボーカル音楽も、レコード会社が契約打ち切りを通告してきたんです。 ぽっかりと空白の時間ができてしまって、 LAを去ることにしてサンフランシスコへ戻ったんです。 1年半ほどサンフランシスコに居ました。 その間にLAに仕事で行った時に今のワイフと出会ったんです。 彼女は当時ニューヨークに住んでいて一時的に仕事でLAに来ていました。
PCI:なるほど、ニューヨークへ行くことになった重要な理由ですね?(笑)
Robben:その通り。(笑) 私はサンフランシスコに引っ越し、その頃もうLAには戻りたくありませんでした。 彼女は女優のたまごで、サンフランシスコには仕事が無く、結局2人でニューヨークへ行くことにしました。 私にとっては人生の中で一度は住んでみたい街でしたので。
1986年から4年間暮らしました。 その後、1990年にLAに戻ってきたんです。
PCI:なぜ、またLAに戻ってくることにされたんですか?
Robben:ニューヨークでの生活、仕事はあまりハッピーではありませんでした。 ニューヨークでは、一緒に音楽の仕事をできる仲間を見つけるのは難しかったんです。 多分私達が行った時期が悪かったのかもしれません。 ジャズクラブ、「ミケルズ」での仕事だけが、思いだせるただ一つの私の良い活動でした。
PCI:そしてマイルス・デイビスとの仕事はこの頃スタートされていますよね。うちのサイトのファンによると、マイルスデイビスとの演奏の映像、LDの「MILES
AHEAD, Music of Miles Davis」の中で、恐らく1957年製のサンバースト・ボディー、メイプルネックもののオールド・ストラトキャスターを使っているとのことですが?
Robben:1958年のストラトでした。
PCI:そうですか。 そして、フロントPUを使って極上のクリーントーンでソロを弾いてみえたとの事?
Robben:よく見てますね。 でも、3つのPU全てをよく使っていました。 実際はダンカンのPUをトレブルとミドルに実装し、ベースがオリジナルPUだったんです。 これはマイルスとの仕事の時です。 その後ダンカンのPUは外しました。
PCI:そして遂に1988年にソロアルバム「TALK
TO YOUR DAUGHTER」を発表して大ヒットとなりました。これが本当にやりたかった音楽だったんですね?
Robben:そうです。 このアルバムで本当に私のソロ活動が世の中に認められた様な気がします。 それまで懸命にやってきたつもりですが、なかなか前に進めませんでしたので。
PCI:そしてこのアルバムの後、「The Blue
Line」まで数年ブランクがありますが、この間はどうされてたんですか?
Robben:次のアルバムを出そうとは頑張ってたんですが、どうも時間がかかってしまうんです。 「The
Blue Line」がリリースされたのは1992年ですから、4年も間が空いてしまったんですね。 確かこの時は、アルバム製作以外にデビッド・サンボーンと仕事をしたり、渡辺貞夫と日本のツアーへ行ったり、その他にもいくつかツアーをやってたと思います。 で、レコード会社が私との契約を破棄しましたし。 その時私はまだニューヨークに居たんですが、たまたまチック・コリアが新しいレコード会社の契約の話を持ってきてくれたんです。 それで、先ほども言ったように、一緒にやりたいミュージシャンがたくさん居るLAに戻ってきて、新しいレコード会社と契約したんです。
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