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2006年08月23日
第33回:酷暑
どーだい、坊ちゃん嬢ちゃん、
ギターは暑苦しい顔で弾くんだよ、こんなふうにねぇ。

***暑い...なんだこりゃ...、NYの夏じゃないみたいだ。気温も湿度も高い日は勿論NYの夏にもあるが、いつもならそう長くは続かない。2,3日もすれば乾燥した空気が流れ込み、カラッとして気持ちのいい夏日に戻る。でも今年はちょっと違うようだ。20代前半、東京下町に住んでいた頃、ひと夏の間には必ず数回「いや、参った、こりゃ暑い。」と思わせるしつこい蒸し暑さの続くことがあったが、今年のNYの夏はそれを思い出させる。空気がベターッとよどみ、思わず頭から水をかぶりたくなる。ビールは美味い(いつでも美味いけど。)が、その後が寝苦しくていけない。暑がりのくせにエアコンが苦手で、極力扇風機に頼るが、ここまでくると扇風機では全く追いつかない。こんな時に野外コンサートなどで山間部に行く機会があると、森や湖の有り難さを痛感する。日差しの強さはもちろんNYと同様なのだが、木々の間や水面を伝わる風が涼しく、日が傾くにつれて気温も下がってくる。やはりコンクリートとアスファルトに覆われた地面では空気がドロリと動かなくなってしまうのではないか、もしかしたら、地面が呼吸できずに窒息しているのではないか、そんなふうにさえ思えてしまう。地球全体が暖かくなってきているという。南極、北極の氷が年を追うごとに目に見えて減り始め、地域による降雨量の差が極端に開き始めているのだそうだ。確かに言われてみれば、最近の天気は素人目からみても少し極端すぎる気がする。
10年程前、バイト先にやってきたお客さんの一人でアメリカ在住50年の90歳になる女性が、「人間はね、木を見下ろすような生活をしちゃダメなんだよ。」と話していた。背の高いビルに寝起きすること自体が間違っているのだと、このおばあちゃんは力説し、「アンタねぇ、こんなとこ(NYC)に住んでちゃダメ。おかしくなっちゃうよ。アタシの住んでる街(NJの山間部)に来なさい。」と周囲のお客さんを完全に無視した大声で俺を諭した。あまりにも唐突でその時は唯々「引き」まくるばかりだったが、彼女の言わんとする「木を見下ろすような生活」とは、「高慢に生きる」ことなのかも知れないな、と今になっては思える。確かに、当り前のように樹木を伐採し森林を切り開き山を削ってアスファルトやコンクリートでガチガチに固めてきた人間の長年にわたる行為は、自然への高慢で身の程知らずの冒涜行為といえるのかもしれない。
そしてこの大停電である。世界一の大都市NYCで、限られた区域とはいえ、地下ケーブルが火を噴き電力供給が5日以上止まった、そしてその理由は「暑いから。」、この21世紀に、である。もしNYCに来るチャンスがあったら、観光やショッピングの合間に街の隅っこの方にも視線を配ってみるといい。雨の日に傘をささなければ歩けやしない雨漏りだらけの駅構内、雨漏りで水溜りのできる車両、急行か各駅か車掌さえわからない7番電車、ひどい時には1時間近く予定時刻に遅れ、無予告で停車場を変更する路線バス、ちょっとの雨で冠水し閉鎖される高速出口、そこいら中がつぎはぎだらけの、まるでサードワールドのようなこの街の一面が見えてくる筈だし、そのつぎはぎの隙間から覗いてみれば、この国の絶望的とも言える貧富の差や教育水準の差を目の当たりにすることも可能かもしれない。
実際に停電の起こったNYCクィーンズ地区は、イースト・リバーを挟んでマンハッタン島の東に位置する区域で、南米やアジアからの移民家族が多く住む御世辞にも裕福とはいえないエリアである。大富豪としても有名な現NY市長は年に1~2回、数名のボディーガードとテレビカメラを従えて地下鉄通勤し、自分もNYに住む一(いち)小市民であることをわざとらしくアピールする。どんなにダイヤが乱れても(NYの公共交通機関のスケジュールはしょっちゅう滅茶苦茶になる。)毎朝毎晩地下鉄やバスを使わざるを得ない立場からすれば、こんなに白々しい茶番劇は他にないし、おそらく今回の停電も、市長にとっては文字通り「対岸の火事」でしかないのだろう。その市長が「なぜここまでの大規模停電が、クイーンズという地区だけに起こったのか?」というマスコミの質問に、「そんなことは知らない。暑くてみんなエアコンを使いすぎたんだろうし、そもそも大画面の液晶テレビやコンピューターが普及しすぎて電力消費が増えたんじゃないのか?」と面倒臭そうに答えていた。2年前には現大統領の母親バーバラさんがカトリーナ・ハリケーン難民を指して「彼等はどうせもともとから貧乏だったんだから放っておいてもいいじゃないか。」と口走った。「貧乏なんだから文句を言う権利もない。」というのが支配者階級の本音というわけだ。
このアメリカ合衆国には国民健康保険の制度が存在しないので、この国で生活する以上、民間の保険制度に頼らざるを得ないのだが、それもよほど裕福でないとまともな医療にあやかることはできない。以前、日本の歯科医師免許も持っている中国系歯科医師に「アメリカと日本の歯科医療はどっちが上ですか?」と尋ねると、「最先端の技術で言うならアメリカが10年以上先を行っているかもしれない。でも、大金持ちででもない限り、その恩恵を受けることは無理ですから、トータルで言えば日本の方が上でしょう。この国(アメリカ)の保険のシステムは信じられないくらい遅れていますよ。」と答えた。日系大企業のニューヨーク支社に10年以上勤務する友人が大腸の手術をすることになった。勿論、彼は会社側から提供された高価で信頼のおける保険に加入しているし、手術そのものもけっして困難な手術ではなかったのだが、「万一輸血が必要となったときを想定し、手術の2週間前に自分の血液を一定量採って血液庫に保管しておく。」という通例に従い、病院内の血液センターで採血をおこなった。その後ドクターに「この採血のための費用は私の保険でカバーされますか?」と尋ねると、ドクターは「勿論、問題なくカバーされますから、安心してください。」とにこやかに答えた。ところがその直後、ドクターは思い出したように「あっ...、でもね、血液を保管する冷蔵庫の使用料は保険対象外ですから、自己負担ですよ。」と言われ、あっけにとられたという。この国は人の命を左右する保険制度までもがつぎはぎだらけなのかもしれない。
***あるテレビ放送で、洞窟に書かれた原始人の壁画についてのドキュメンタリー番組があった。その中で「何故人間は絵を描くのか?」という問いがあり、ひいては「何故人間は『アート』をしたがり、『アート』を求めたがるのか?」という問いが続いた。その番組を観ていて思い出したのが、都内の某有名大学でユークリッド哲学や仏教哲学を研究していた天才女子大生との会話だ。同じ時期に同じ大学の文学部に所属していた別の友人の話では、彼女の才能は学内ではとても有名で、彼女を満足させられる受け皿は同学内にはおろか国内にもないのではないか、とまで噂されていたのだそうだ。1990年に初めてNYに遊びに来たときに利用したホテルが、大学を休学し世界を放浪していた彼女と偶然同じで、NYの音楽に興味があるという共通点からいくつかのライヴハウスに同行したのがきっかけだった。ある日彼女が唐突に「ヒロさんは何故ギターを弾くんですか?」と聞いてきた。とっさに「自分を表現したいからかな?」と答えると、間髪を入れずに「じゃ、何故自分を表現したいんですか?」と聞き返してきた。これにはさすがに答えに詰まり、「うーん、多分ね、充実したいからだと思うよ。」と苦し紛れに答えると、彼女は「じゃ、ヒロさんは音楽をやっていなきゃ充実しないんですか?唯の『ヒロさん』じゃ充実しないって、それって唯のエゴじゃないんですか?」と畳み掛けられ、「うーん、参った。そんなにいじめないでくれ。」とぐうの音も出ないところまで寄り切られてしまった。これは今になってはとても懐かしい思い出だ。あれからもう15年以上経ち、最近やっと彼女の質問に答えられるような気がする。「自分は不完全だから。」、超単純だ。直接彼女と話せるなら、「そう、俺はエゴだらけ、邪念と煩悩だらけの人間だからだよ。」と答えると思う。哲学や宗教のことはよくわからないが、もし人が邪念や煩悩を捨て去り、悟りの境地に達したら、「もの」を創造したりする必要性や衝動などまったく感じなくなるのではないだろうか?自分は不完全だからギターを弾き続けているのだと思う。これは多分、ジャンルやカテゴリーの如何を一切問わないと思うのだがどうだろうか?
ごく最近、映像関係の作業に没頭する友人と映画の話になり、俺がある数学博士に関する日本の映画を観た、と話すと、「それって唯の『ドラマ』でしょ、そんな映画よく観るね、鈴木さんってそんなのが好きなの?そもそもなんで『ドラマ』を映画にしなきゃなんないの?全然意味ないじゃん?!」と思いっきりボロクソにこきおろされ、思わず作り笑いを浮かべてその場をそそくさと退散させていただいた。彼の前でそんな映画について口走った自分が愚かだったようだ。あまりにも自分の役柄にこだわり過ぎていたイングリッド・バーグマンにアルフレッド・ヒッチコック監督が「たかが映画じゃないか。」といさめた話は有名だし、ローリング・ストーンズは”I know it’s only rockn’ roll, but I like it…”と唄った。作品に甲乙をつけたり、カテゴライズして意味の有無を問うたり、さらには自論を他者に押し付けたり、果たしてどれだけ意味があるのだろうか?。音楽も映画も絵画も彫刻も写真も『ドラマ』も『ドキュメンタリー』も『ブルース』も『ロックンロール』も、どれも唯の不完全な人間が言葉にならない衝動に駆られた末に自分というフィルターを通して生み落としていった、たかがアート、芸術だと思うし、同じ不完全な人間がそれらのどれを楽しみ、豊かな気持ちになろうと他人の知ったこっちゃない、と思えてならないのだが...?
蛇足1
活動状況の詳細は後々お伝えするとして、最近、今までに経験のない二つの全く異なるプロジェクトに足を突っ込んでいる。一つはハーモニカ・プレーヤーとのアコースティック・ブルースのデュオ、もう一つはオールディーズのスゥィング・ブルースを基盤としたジャズ・ブルース・バンド。サウンドもメンバー構成も全然違うのに、一つ大きな共通点がある。どちらのプロジェクトにあっても、俺が唯一のコード・インストゥルメンタル・プレーヤーで、それが自分の演奏への大きなチャレンジとなっていることだ。そしてこれらの未知のチャレンジから得らるものはかなり多そうだ。正直に言ってどちらも非常に難しい。時には音のない「間」がグルーヴをより強力にし、またコードの一つ一つの構成音の違いがスゥィング感を台無しにしてしまう、そんなことを日々痛感しながら大汗をかいてギターを弾いている。

スィング・ブルース・バンド「リック・フィンク&ガスハウス・ゴリラ」、
良くまとまってます。こういうバンドだと、加入してからが楽。
シンガーのリック、良い曲書きまっせ!
http://www.myspace.com/thegashousegorillas
http://www.gashousegorillas.org/
蛇足2
1972年にNYのマジソン・スクエア・ガーデンでジョージ・ハリソンを中心におこなわれた「バングラディッシュ難民救済コンサート」を御存知だろうか?昨年、ツアー中に滞在したシアトルの小さな中古レコード屋で購入した同アルバムの、ラヴィ・シャンカールのシタール演奏がとても良い。そして最近、マンハッタンでたまたま利用したタクシーの運転手(インドからの移民)が流していたシタール音楽がとても美しかったので「これは何というアーティストのCDですか?」と尋ねると、ドライヴァーはそう聞かれたことがひどく嬉しかったらしく、「あなたはどこの国から来たのですか?インド音楽はお好きですか?」と、CDヴォリュームを上げながら聞き返してきた。「日本人です。ラヴィ・シャンカールの演奏は好きですよ。」と答えると、とても嬉しそうに「このシタール奏者は、ラヴィの愛弟子で、このタブラ奏者は私の兄です。」と、わざわざ両奏者の名前を書いてくれた。そのCDはヴァージンにでも行けば必ず手に入るのだという。とてもゆったりとした、美しいサウンドだった。近々是非手に入れたいと思っている。停電があっても、電車が止まっても、雨漏りがしても、やっぱりNYは「やめられない」かもしれない。

蛇足3
今年のメジャー・リーグのワールド・シリーズもしかしたら2000年の再現、メッツ対ヤンキースになるかもしれない。メッツがとにかく強い。ぶっちぎりの独走、ミラクル・メッツ状態だ。そしてヤンキースは永遠の犬猿の仲であるボストン・レッド・ソックスにまさかの5タテを食らわせた。すっきりした。でもこうなってくると日頃何かとヤンキースに注目しがちな俺もメッツを応援したくなってくる。何しろメッツはクィーンズの球団だからだ。来月あたり、シェイ・スタジアムで美味いビールでも飲もうかと思っているところだ。
投稿者 hirosuzuki1 : 2006年08月23日 17:01
コメント
すごいな。コルゲンいつから作家になったんだ?
最近、目が悪くなってきて小さい字が読みにくくなってきてさ。時間かかるわ、、、
投稿者 og3 : 2006年09月10日 18:43
