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2006年04月21日
第29回:2006年日本(その2)
***2月17日から28日まで、7本のギグと3本のラジオ出演、そして御大塩次伸二氏のギター・クリニックと、東京、神戸、大阪、京都、横浜、藤沢の間を12日間で一気に走りぬけた。いろいろなところで、いろいろな人の前で、ギターを弾き、歌を唄ったが、その中でも、オリジナル曲をめぐる、とりわけ印象深い出来事から話してみたい。
この7本のうちの5本がオリジナル・プロジェクト「G.J.JUKE」によるギグで、2月17日横浜サムズ・アップを皮切りに都内や藤沢を廻り、締めくくりが28日渋谷クロコダイル、それらの日程の間に関西圏に足を伸ばすというスケジュール。まあ、なんとかなるだろう位の軽い気持ちで組んだこの日程は、実際にスタートしてみるとかなりハードで、まるで日を追って重くなってゆく大きな荷物を背負ったまま全力疾走するような、そんな毎日の連続だった。十分なリハーサルを持つことが時間的にどうしても無理で、全演奏曲、特にオリジナル曲の仕上がりが思い描いてるイメージになかなか近づけることができないのが一番辛い。それでも日々いろいろなアイデアや工夫を考え、毎回のギグでそれらを試しては少しでも音に反映させようと試行錯誤を繰り返した。ここまでしてかたくなにオリジナル曲を中心にしたショーを続けたのは、この短期間内にミュージシャンである俺個人としてもG.J.JUKEというユニットとしても、少しでも成長し、充実し納得できる気分で締めくくりを迎えたかったからだ。
そんな状況の中、やや過剰な頑張りすぎがたたり、肉体的にも精神的にも疲れが溜まってゆく毎日を送るうちに、「無理だ。」というあきらめや「こんなもんだろ。」という言い訳、そして「やっつけ仕事でさっさと片付けちゃおうか。」というような甘えが気持ちの中に生まれかかっていたのも確かだった。しかしそんなツアーもいよいよ締めくくり、2月28日クロコダイルでの演奏の直前に、「すいません、ヒロさんのオリジナルで『天国があったら...』と唄っている曲の題名を教えて下さい。」と、ある女性客が話しかけてきた。
「あぁ、あれは『願い』って曲。でもどうして俺のオリジナルを知ってるの?」と尋ねると、彼女が俺のショーを最初に観たのは初日の横浜サムズアップで、そもそも他のメンバーの演奏を聴くのが目当てで足を運んだだけで俺のことは全く知らなかったが、そこでたまたま聴いた「願い」がひどく気に入り、スケジュールをインターネットでチェックして、それ以来24日の藤沢ビートバー・ベック以外の全てのG.J.JUKEのショーに来ている、そして更に、「私にはとても親しかった幼なじみの思い出があります。彼は重い病気を患い亡くなりました。もし彼が生きていれば、間違いなく私たちは結婚していたと思う、それ位お互いが大好きだったんです。でも『願い』を聴いていると、彼が今でも私のそばにいて、私を見守ってくれてるような気がするんです。」と、曲名を尋ねた理由も彼女は話してくれた。
俺のオリジナルをここまで心に刻んでくれている人と出会えて、中途半端な気持ちでは絶対に音楽はするまいと激しく自分に言い聞かせると、背中の荷物がいっきに軽くなったように思えた。演奏が始まり、「願い」を歌いながら客席にふと目をやると、ハンカチで目を覆っている彼女の姿が飛び込んできた。こっちまで胸が熱くなって、唄い終わるのがやっとだった。
---「願い」---
もしも本当に天国があって あんたが住んでいるというのなら
いますぐここに降りてきて 俺の願いをかなえてくれ
解り合えないと思うだけで 違い過ぎると思うだけで
正しいと信じるだけで 間違っていると決めつけるだけで
傷付け合い絶望の涙を流し合う 悲しみを知らない人がいる
あんたはいますぐここに来て もうよしなよと伝えてほしい
言葉にならないやるせなさ 訳の解らない空しさ
鏡に映る自分を見れば 空っぽの手の中でうずくまっていた
ただの自分をあざ笑いながら 悲しい歌ばかり唄う俺がいる
そんな時あんたがそばに来て 大丈夫だよと肩を叩いて欲しい
最後の願いを聞いて欲しい これが本当に最後だから
とても大切な願いだから どうしてもかなえてほしい
酒臭い店でギターを弾いて 古臭い歌ばかり唄う俺だけど
俺には大切な人がいる こんな俺を抱きしめてくれる人がいる
もしも俺が飲み潰れて押し潰されて あの人を守る事が出来なくなったら
そんな時こそあんたが彼女を守りながら 俺は幸せだよと伝えて欲しい
もしも本当に天国があって あんたが住んでいるというのなら
いますぐここに降りてきて 俺の願いをかなえてくれ
(2005年3月4日、詞曲;鈴木ヒロマサ)
***この日本ツアーでは、2月15日から3月8日までの22日間の滞在中に、結果的にはラジオ出演やセッション等々を含めて計15回のパフォーマンスを行なったことになる。行く先々で多くの人々との新しい出会いがあり、新しい音楽が生まれ、それら一つ一つが将来大きな大きな意味を持つことになりそうな予感がする。特に今回は、ジャム・セッションのハウス・バンドへの参加や、ギター・クリニック、そしてG.J.JUKE自らがハウス・バンドをつとめるセッションと、多くの若い才能との出会いに恵まれる機会を多く得られたことは、何よりの収穫だったと思う。
2月18日の渋谷テラプレインのセッションと、3月1日の大塚ウエルカムバックのジャム・セッションのハウス・バンドをつとめたのは、ブルース大好き青年たちによる「北川純とブルース青年会議所」という不思議な名前のバンド。この二つのセッションを通してめぐり会った、ハウス・バンドを含む多くのミュージシャンの中では、何故か女性の存在感が際立っていたように思える。ウエルカムバックのジャム・セッションに飛び入りしたチェリーレッドのギブソンSGスペシャルが妙に板に付いていた女性は、不器用にかき鳴らすギターのトーンが何故かとても耳に心地よく、かっこよかった。ギターが大好きでロックが大好きでブルースが大好きでなければ絶対に生まれないトーンだ。テクニックや知識云々ではなく、どんな音楽をやりたいのかがひしひしと伝わってくるような演奏。彼女のようなプレーヤーがもっと多く出てきてほしいと思う。また、ギター、ドラム、ベースといったベーシックなセクション以外の楽器奏者の参加が非常に少ない中、ただ一人のピアニストがセッションに加わってくれた時はとても新鮮な気分だった。その女性ピアニストもまた、音楽する喜びを満面に浮かべてプレーをしていたのがとても嬉しい。
もう一人、「ブルース青年会議所」の一メンバーとして、両方のセッションでプレーした金澤沙織というドラマーがいた。すでにテラプレインのリハーサルの段階で、特にグルーヴを生み出すという点で飛び抜けていた彼女に、最初のセットの前に「俺はいつもドラマーにぴったり貼りつくギタリストだから、今回もあなたのグルーヴに乗せてもらうから。落とすところはスティックを置いちゃうくらい落として、盛り上げるところは徹底的にぶったたいて、ダイナミズムを思いっきりつけて。合図は送るけど、お互いが思ってることを感じるようにしよう。」と話した。彼女はよく理解し、注意深くキューをとらえ、安定したグルーヴとダイナミズムで素晴らしいバックアップをしてくれた。ただ初めてのコンビネーションだったこともあり、それぞれの曲やソロがどういう形や色に仕上がってゆくのかが明瞭でなくなった時に、どうしても周りに合わせすぎてしまう感があったので、「誰かがカウントを出したから曲を始めるんじゃなくて、『自分が曲を始める』からカウントに乗るし、誰かが合図を出したから終るんじゃなくて、『自分が曲を終わらせる』からエンディングのフレーズを叩く、つまり『自分はこの曲を創造するコンダクターなんだ。』位の気持ちがあって丁度いいと思うよ。だから、もし『あれ、ヒロさん、もっとソロを盛り上げてよ。』って思ったら、俺をどんどん煽ってごらんよ。」と再びファースト・セットの後に話した。
こんなふうにしてテラプレインでもウェルカムバックでも、ほとんどのセットの後に感じた事を俺なりに伝え、まるでそれらの意見に正確で丁寧な回答をするかのように、彼女の演奏はセットを追うごとに存在感を増していった。そしてウェルカムバックのセッションの後、今度は彼女の方から、「ヒロさん、みんなソロとかでおとなしすぎると思うんですが、ジャムってこんなもんなんでしょうか? もっとガンガンいっていいと思うんだけど。」という嬉しい(?)意見が出た。ただ楽曲をみんなで合わせるだけではいい音楽は絶対に生まれっこない、時にはメンバーどうしの情熱とか情念とかが音を伝わってぶつかり合い、火花を散らし、時にはいたわり合い、時には愛し合う、つまりワンツースリーフォーとカウントが出た途端に仲良く無難にエンディングまで辿り着こうとするのではなく、次の瞬間に何が起来ても不思議ではない、緊張感のあるエネルギーがステージから発せられ、それが観る側をも巻き込んだ時にこそ素晴らしい音楽が生まれるのではないだろうか、という持論を話し、今回の日本滞在中最後のG.J.JUKEによるセッションである
3月8日の新中野「弁天」にドラムスティック持参で必ず遊びに来るようにと伝えた。
今回の帰国で出会った若く素晴らしい才能を語る時、どうしても紹介しておきたいミュージシャンがもう一人いる。...このコラムを御読みになっている皆さん、前出の金澤沙織同様、どうか彼等の名前を絶対に忘れずに、チャンスがあれば実際に彼等の演奏を聴いてみて欲しい...それは20歳になったばかりのギタリスト兼シンガー、藤倉嗣久(ツグヒサ;<http://www10.ocn.ne.jp/~matsu113/pe-ji2/hotoke1.htm>を参照)だ。2月17日横浜サムズアップでの対バンにと、ハーピストのコテツ氏から紹介されたバンド「ソウル・ステュー」のリーダーで、すでに永井隆、鮎川誠、塩次伸二、山岸潤史といったビッグ・ネーム達からも非常に高い評価を受けている。とても20歳とは思えない感情豊かな唄いっぷり、そしてなんといってもデレク・トラックス直系の超絶スライド・ギター・プレーは必見だ。ミュージシャン=アーティストとして不可欠な感性、それぞれの曲をどんな色に染めたいのか、どんなシェイプに仕上げたいのか、そうするためにメンバー一人一人にどうして欲しいか、を常にピクチュアライズし、バンド全体を引っ張るのに十分な実力と大きな存在感がある。彼にも3月8日にはギター持参で必ず参加するように誘ったところ、「自分のアンプを持って行っていいですか?」という、涙が出るほど嬉しい二つ返事が返ってきた。
話が大きく前後するが、2月19日「楽や」でのアコースティック・セッションの後、最高にリラックスした気分で酒を飲んでいると、G.J.JUKEのドラマー、嶋田吉隆氏が、「オマエ、3月9日に(NYに)帰るんだろ、なんで3月中にギグを一本も取らないで2月28日で締めくくるんだよ?」と言い出した。「だーってヨシさん、3月の最初の週末(3,4,5日)はチャーのツアーで忙しいって言ってたじゃん?!」と答えると、今度はその隣にいたベースの渡辺茂氏がすかさず「7,8なら、俺、空いてるよ。」と話に加わり、二人で「どっか、今からでもブック出来ないかなぁ?」とかぶつぶつ言いながらいきなり電話をかけ始めた。NYへのフライトは3月9日午前11時である。最後の3日間はゆーっくりと実家でくつろごうと楽しみにしていた。
「ちょ、ちょっと待って、7,8はオフなんだけど...9日の朝はもう成田だし...」などと言っても、二人の耳にはぜんぜん届いていない。強力にグルーヴしはじめた40代リズムセクションを止める事は出来なかった。「取れたよ。8日、新中野、弁天。」、「あぁ、あの店は良いよ、やったじゃん。」、「ヒロ、何日に帰るんだっけ?えっ、8日?、フライト何時?11時?空港までは?バス?じゃあ、7時頃出ればいいんだろ?心配すんな、朝まで付き合ってやっから。」とかなんとか言いながら、二人は涼しい顔で満足げにビールを飲み続けている。酔った勢いでブックされた帰米直前の3月8日新中野「弁天」、これが本当の締めくくりセッションになったわけだ。
弁天はモダンなオフィスビルの地下にあり、まだ開けて間もないという事で、ブルースやロックというよりむしろ、おしゃれなジャズやフュージョンとかが似合いそうな、都会的な雰囲気のライヴ・ハウスだった。機材や音響設備が非常に充実しており、また店全体が音に集中できる無駄のない造りがとても気に入った。ここでのショーは、ファースト・セットがオリジナル中心のG.J.JUKEのセット、そしてセカンド・セットが多くのゲストを交えてのインヴァイティッド・ジャム・セッションとした。山田智之という最高にかっこいいパーカッション・プレーヤーがノーギャラを承知でセカンド・セット中叩きまくっていたし、高橋誠がテレキャスター・カスタムの弦をぶっちぎってブルースを弾いたし、昨年ニューヨークの有名クラブ「カッティング・ルーム」のジャムに飛び入りし日本語でビル・ウィザースの「リーン・オン・ミー」を唄い、満員の観客を総立ちにさせた森永アキラがこのセッションでも素晴らしい歌を聴かせてくれた。オーディエンスの中にはギブソンSGスペシャルのブルース・ウーマンやかつてNYで俺や嶋田氏と同じサーキットでプレーしていたことのあるドラマーのキンヤもの姿も。
そしてこの晩、ステージに注がれる二つの大きな大きな視線を、ファースト・セットの一曲目から痛いほど感じていた。ステージ上手のカーテンの隙間から噛み付くように見つめる藤倉ツグヒサと、客席のずっと奥のほうから大きな瞳を光らせる金澤沙織。最初はツグヒサがステージに上がり、3曲ほど演奏し、その後、嶋田氏に代わって沙織がG.J.JUKEに参加。どちらの演奏も本当に素晴らしかった。各自の演奏が終わった後も、二人共熱心に演奏を聴き続け、その晩の最後の曲では沙織とソウル・ステューのドラマー吉岡優三がいつの間にかステージに上がり、山田智之と三人でパーカッションを叩きまくっていたのには思わず笑ってしまった。(沙織のコンガがこれまた素晴らしい。)
ニューヨークでジャム・セッションに参加する場合、時には驚くほどのキャリアを持つミュージシャンとの偶然の共演が実現する可能性がある。今までの経験を例を挙げるならば、リッチー・キャナタ(ビリー・ジョエル・バンド、ビーチ・ボーイズのサキソフォン)、クラッシャー・グリーン(故人、元ウイルソン・ピケット・バンドのドラマー)、スティーヴ・ローガン(ハイラム・ブロックス・バンドのベース)、ダニー・ドレイヤー(エッタ・ジェイムス・バンドのギター)、ディヴィッド・コーエン(カントリー・ジョー・アンド・ザ・フィッシュ、マイケル・ブルームフィールド・バンド、ミック・テイラー・バンドのキーボード)、トッド・ウルフ(シェリル・クロウ・バンドのギター)、ジョン・パリス(ジョニー・ウィンター・バンドのベース、ハープ、ギター)等々、枚挙に遑がない。彼等にしてみれば、ほとんどは他のセッションやギグの帰り道にたまたまふらりと立ち寄ったり、ジャムを仕切っているハウス・バンドのメンバーやライヴ・ハウスの店員とかに知り合いがいるから一杯引っ掛けに寄った、そしたらバンドから「プレーしてくか?」と誘われ、たまたま気が向いたから、じゃあ弾いてこうか、せいぜいその程度のきっかけで気軽に飛び入りしてくるのだろう。
でも、どんなに小さなチャンスでもいいから手に入れようと手当たり次第にジャムに参加する駆け出しぺーぺーのこっちの立場にしてみれば、彼等との演奏そのものが夢のような経験であるのはもちろんだし、なによりも大きいのは、彼等のようなトップクラスのミュージシャンとのセッションを通じて、今の自分のプレーには何が必要なのかをより明確に具体的に発見できる、言い換えれば自分の演奏をより客観的に見つめられる絶好の機会であるということ、そしてもう一つは、どんなにリラックスして演奏していても、彼等が音楽と向き合ったときに必ず生まれてくる独特の緊張感を新鮮に体験できる絶好の場であるということだと思う。
ジャムの始まる随分前に店にやってきて、セッション・リストのなるべく上のほうに名前を書き、なんとか早く演奏したいと順番を待つ参加者達も、ずっと後からやってきた彼等が順番を飛び越してセッションに参加しても誰も文句を言わない。それがこの実力第一の世界の「あたりまえ」だからだ。タイミングよく彼等とセッション出来れば万々歳、時にはリストの一番上に名前を書いて4時間も5時間も順番を待ち、とうとう一曲も参加できずにジャムが終ってしまう事だってしばしば、それでも懲りずにジャムに通う。なぜならそこには自分を次のレベルに導くチャンスが少なからず存在するからだ。
数年前から帰国の毎に出来るだけ多くのジャム・セッションに足を運ぶようにしている。今回のウエルカムバックでは、国内では初めてハウス・バンドのメンバーとしてジャム・セッションに参加した。どれもハウス・バンドやホスト役によってきめ細かにリードされ整理整頓され、参加者全員を平等に演奏させるようにとの細心の努力が施されていた。参加者の中にはかなりレベルの高いミュージシャンもいるが、総じてミュージシャンどうしのコミュニケーションが希薄で、なんだかそれぞれがバラバラに自宅の居間でCDに合わせて楽器を弾いているような、フラットで緊張感に欠ける演奏がほとんどだった。そして現役プロとして頻繁にライヴ・パフォーマンスをこなすようなプレーヤーがそこに飛び入り参加するような場面には残念ながら一度も遭遇した事がない。
ビッグ・ネームと呼ばれるミュージシャンのライヴ演奏を、それも彼等の汗が届くほど小さなスペースで経験すればはっきりとわかることだが、鳥肌の立つような緊張感とジェット・コースターのようなダイナミズムがそこに必ず存在する。そしてどんなに優秀なレコーディング技術や再生技術をもってしても、それらを再現する事は絶対に無理、つまり良いライヴ演奏を経験したければ、良いライヴ演奏の場に自分を投げ込む他に手段はないのである。弁天でのセカンド・セットを、インヴァイティッド(招待制)ながらもジャム・セッションとし、今までに日本で出会った多くのミュージシャンにプロ、アマ一切問わず声をかけた大きな理由の一つは、日本のR&B、ファンク、ロック、ソウルのシーンでバリバリに活躍するG.J.JUKEのメンバーの演奏を汗の十分届くスペースで経験し、チャンスがあれば共演できるような場を提供する事で、ニューヨークのジャムで経験してきたこような「緊張感」や「ダイナミズム」を少しでも日本にも伝えられないだろうか、と考えたからだ。
ニューヨークやシカゴ、ニューオリンズで「おい、あいつの演奏を聴いたか?」と聞かれれば、十中八九「あいつ」の演奏をライヴ・ハウスで聴いたかどうかを問われていると思って間違いない。これはいかにライヴ音楽がこれらの街に定着している(いた)かを物語っていると思う。今回の帰国で、東京や大阪には驚くほど多くのライヴ・ハウスがあることがわかり、とても喜ばしい限りだ。才能豊かなミュージシャンも多いのだから、後は我々がオーディエンスにまわったときにいかに「聴く」かで、日本のライヴ・ミュージック・シーンの盛り上がり方も、今とは随分と違ってくるのではないだろうか。
オーディオ側に大きく寄りすぎてしまった音楽の重心をライヴ・パフォーマンス側になんとかして引き寄せられるように、アマチュア・ミュージシャンがプロのライヴ・ミュージシャンと至近距離で演奏を通して交流出来る場を、もっと頻繁に設けられたら、とつくづく思ってしまう。(つづく)

写真その1
2月19日、東京都内で俺が一番リラックスできる店「楽や」でのアコースティック・セッション。言わずもがな、このリズム・セクションは世界中どこへ持って行っても恥ずかしくない。
![1[1] (2)a-3.jpg](http://www.prosoundcommunications.com/hirosuzuki/archives/1[1] (2)a-3.jpg)
写真その2
さてと...、一服しよ...電池...舌がビーリビリしまっせ...
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投稿者 hirosuzuki1 : 13:28 | コメント (0)
2006年04月11日
第28回:2006年日本(その1)
俺という人間はどうも、なにごとにつけてもひどく不器用な人間だ。何をするにもとりあえず段取りみたいなものを考えて、全てを円滑に終らせようとしてはみるのだが、まずそもそもその段取りからして状況にかみ合うことがほとんどなく無駄になり、結局は耳障りなきしみ音をたてながら行き当たりばったりに事を進めている、いつになってもそんなふうだ。時にはひどい自己嫌悪に陥るし、また時には八方ふさがりの状況に絶望的な気分になり、起き上がれないくらい落ち込む事もある。そしてニューヨークのミュージック・シーンの状況は目に見えて悪化するばかりだ。とにかくきびしい。「どん底」と言ってもいつまでたっても底に届かないし、復調のきざしもさっぱり見えてこない。
それでも、少なくとも俺の場合、ひとたびオーディオからお気に入りの音楽が流れ、楽器を手にすれば、そんなへとへとの心の中にも小さな「夢」が頭をもたげはじめ、それを大きく成長させる元気を維持しながら明日からもなんとかやってゆこうという気持ちになることができる。つまり俺という人間は、つくづく音楽とギターに助けられて生きている、とも言える。
実質的にプロ・ミュージシャンとしての活動が本格的に軌道に乗ったのは、ニューヨークに引っ越してきてから約一年後、当時地元のブルースシーンで最も人気のあったバンドの一つ、S&Tに参加してからである。S&Tは当時マンハッタンにあった人気ブルース・クラブのレギュラー・バンドとして毎週火曜日の演奏は確定していたし、週末もその他のクラブでの演奏に引っ張りだこで、おかげで俺自身もとても忙しく充実した毎日を送っていたのだが、1993年秋、ニューヨークでの二回目の年末目前、「新しいギタリストを加入させたいから。」という理由で一方的にクビにされてしまった。かきいれ時を目前にして仕事を失い、がっくりと気を落としたものだが、ところがそれも束の間、「捨てる神あれば拾う神あり」というかなんというか、当時やはりニューヨークで非常に人気の高かったFバンドのキーボード・プレーヤーでバンマスのTから「しばらく一緒にやってみないか?」と突然連絡が入り、いきなり大晦日のカウントダウン・ギグを含む約10本のギグに誘われたのである。
当時このFバンドは、ヴェテラン・ミュージシャンがずらりと顔を並べる「職人集団」で、一体どこまでこんなぺーぺーの俺がそのギタリストという大役を務められるのか、正直言ってとても不安だったが、それでも彼等のような実力のあるミュージシャンとの共演を通して少しでも経験を重ねたいという一心で、二つ返事でその誘いを受け、演奏曲のまとめられた3本のカセット・テープを基に譜面をおこし、それこそ寝る暇も惜しんで練習をした。初日はもうとにかく間違えないようすることだけに集中し、ガチガチの演奏になってしまったのを今でもはっきりと思い出す。
それでもギグを重ねるうちに曲にも慣れ、バンド全体を目と耳で意識する余裕が生まれ、少しづつこのユニットの「音楽」に没頭できるようになってきた。ところがそんなふうに徐々にこの新しい環境に馴染み、それなりに楽しめるようになるにつれ、バンド内にとても妙な空気が漂っていることに気がついた。確かにメンバー全員が素晴らしいミュージシャンばかりなのは間違いないのだが、メンバー全員の意識の向かう方向がてんでバラバラに感じられたのだ。まず誰もアイ・コンタクトをしない。もしかしたら俺だけがアイ・コンタクトを逃していただけだったのかもしれないが、少なくとも俺の方からアイ・コンタクトを送ろうとするときはいつでも、ベーシストはステージのうしろの壁に寄りかかり、指を楽器の上で動かしてはいるもののまるで眠っているように見え、T本人も遠くを見つめるようなうつろな視線を客席と鍵盤の間を行ったり来たりさせているだけ。リード・シンガーはあらかじめ用意された曲順に沿って淡々とショーを進め、毎回同じようなジョークを飛ばし、お決まりのエンディングで曲を終わらせてゆく。そしてさらに驚いたことに、ギグを重ねるごとにだんだんTが俺と口をきいてくれなくなりはじめたのだ。6度目のギグあたりでは演奏前にこちらから「よう!」と声をかけても完全に無視され、セッティング中も演奏中も演奏後も視線さえ合わすこともなく、俺がトイレに行っている間に片付けを済ませて、一言もなく帰ってしまうというありさま。さすがにここまでされると気分が悪いし、何があったのかを知りたくなって当然だ。翌日Tに電話をすると、当時F バンドのマネージャーをしていたTの奥さんが出た。Tは留守だし、マネージャーである自分が話を聞くというので、とりあえず事の成り行きを説明した。ここにきてどうしてあんな態度をとりはじめたのか、もしも俺の演奏に対して不満があるのなら、はっきりと言ってくれれば出来るだけの努力をするし、それでも足りなければクビにしてくれてもいい、とにかく無視されてまで続ける気はないし、遅くても2週間後の次のギグまでに直接話をしてはっきりとさせたいので必ずコール・バックして欲しい、と言うと彼女は、Tからはヒロがとてもよくやってくれていると聞いている、このまま続けて欲しいとも言っていた、無視などしているわけがない、必ずコール・バックさせるから次からも頼む、と明るく言い切ったので、とりあえずその場は彼女の言葉を信じることにした。しかし結局Tからのコール・バックはなく、さらにその後は何度こちらから電話をしても誰も受話器を取らなくなり、留守電にメッセージを残し続けたがそれでも一切のコール・バックがなかった。とても残念だったがこんな環境で良い演奏を続ける自信は全くなかったので、次のギグのちょうど一週間前にもう一度Tに電話をし、残りのギグを全部キャンセルする旨を最後のメッセージとして残し、Fバンドを離れ、同じ頃に並行して参加していた他のバンドとの活動に集中することにした。
その後、TやFバンドのメンバー達はよほど自分の演奏が気にいらなかったようだったと、笑い話代わりにこの話をTを良く知る数人のミュージシャン達にすると、彼等は決まってシリアスな表情になり「ヤツは本当に良いプレーヤーだけど、なにしろ気難しすぎる。」と口を揃え、彼にまつわるいくつもの笑えない話を聞かせてくれた。「ニュージャージーのあるクラブでの演奏後、客と談笑していると、マンハッタンの自宅まで車で送ってくれるはずのTがどこにもいないことに気がついた。『話が長すぎる。』と、怒って何も言わず帰ってしまっていたのだ。マンハッタンまでの交通機関などその時間にはあるわけもなく、仕方がないのでクラブの玄関前で野宿した。」、「待ち合わせ場所がマンハッタンのある駐車場で、そこまでバスと徒歩で辿り着いた。予定より早く着いてしまい、周囲に何もない広い駐車場だったのに加え、ひどい雨で、そこの入り口で他のメンバーが到着するのを待っていた。しばらくしてTの車がやって来て自分を素通りし駐車場の奥に停まったので、車の中で一緒に待たせもらおうと思い、追いかけていって声をかけると、『助手席が濡れるから。』と同乗を拒否された。しかたなくまた入り口まで戻り、引き続き他のメンバーの到着を約20分間、大雨の中で待ち続けた。」、「本番寸前になってもTが姿を見せないのでメンバー全員が大慌てで捜したが予定時間を30分すぎても見つからない。しかたなくキーボードなしで演奏することになり、バンマスが一曲目のカウントを始めた途端、Tがステージに現れ、何事もなかったかのように演奏に加わった。演奏後、店のコックの一人が『Tは大騒ぎで捜し回っているメンバー達を厨房の入り口のドアの影でずっと見ていた。』と教えてくれた。」等々...。その後数年のうちに、いくつかのバンドを通じて、俺もTとは何回か演奏している。そのうちのいくつかでもやはり彼は俺や他のメンバーを終始無視していたし、あるショート・ツアーなどでは、俺に対しては気持ち悪いほどフレンドリーな反面、移動中の車の中や、シェアしたホテルの部屋では終始バンマスや他のメンバー、ブッキング・マネージャー等々への不満をこぼし続け、ステージではしばしば投げやりになりふてくされて、アンサンブルを無視したプレーで周囲を戸惑わせていた。
約4年前、親しい友人のギタリストNのギグを観に、馴染みのバーに行くと、偶然Tが参加していて、例によって俺を無視したので、ちょっと面白そうだったのでこっちから「よっ、元気?!」と声をかけると、その晩はいくらかでも腹の虫の居所が良かったのか、彼の方から随分と話に乗ってきた。忙しくしているのか、と聞くと、「最悪だ。今月も4本しか仕事がない。」と言う。これには正直言って驚いた。どんな楽器奏者よりもつぶしの利くキーボード・プレーヤーで、経験も才能も豊かでどんなジャンルでもこなせるミュージシャンであり、それも極めて希少価値の高いハモンド・オルガンの名手であるTが、たった月4本しか仕事が無いとは、このNYCのライヴ・ミュージック・シーンもいよいよ末期状態に違いない、と絶望的な気持ちにならざるを得ず、随分と重苦しい会話になってしまった。
それでも演奏後、別れ際にTは「俺のニュー・アルバムだ。聴いてくれ。」と、自信たっぷりにCDを手渡した。ジャズ、ブルース、ファンクが完璧な演奏によってレズリー・スピーカーから溢れ出る、それは本当に、ホントウに素晴らしいアルバムだった。すかさずTにメールを送り、どれだけこのアルバムが気に入り、繰り返し聴いているかを、そして次のギグにも必ず足を運ぶつもりでいることを伝えた。約2週間後、約束どおりクラブに顔を出すと、ちょうどファースト・セットが終ったばかりで、バーカウンターで飲み物を注文していたTは俺を見つけるや否や恐ろしくシリアスな表情で近づいてきて、俺を思いっきり抱きしめて、「ありがとう、ありがとう...」と、涙声とも取れるような感情を抑えた声でつぶやきながら、頬にキスをしてきた。50を超えるヒゲ面(俺もヒゲ面だ...)で超コワモテのオッサンが、それも大勢の人の真ん前で、まさかこの俺を抱きしめてキスをするとは、よほど物凄い光景だったに違いない。(ここで断っておくが、アメリカやヨーロッパに暮らしていると、成人男子どうしがハグしたり、相手の頬にキスをしたりすることは、しょっちゅうとは言わないまでも周囲が「引いてしまう」ほど珍しい事ではない。相手を深く感謝したり、強い友情を感じたりした時などには、結構普通にそうするようだ。それでもヒゲ面対ヒゲ面のハグ&チーク、ちょっと凄い。)
演奏後、声をかけて帰ろうとすると、「車で送って行くから、片付け終わるまで待っていろ。」と言う。お互いの住むエリアはだいぶ離れているし、まだ地下鉄の本数の減る時間でもなかったので「いい、いい、手間は取らせないよ。」と断ると、「なんだオマエ、俺に送らせねぇって言うのか?!」とまた怒り出しそうだったので、あまり気は進まなかったのだがとりあえず数ブロック先の駅まで送ってもらうことにした。「キーボードが必要な時は俺以外に電話をするなよ!」と、冗談のつもりで言っているようだったがとても冗談には聞こえないほどドスの効いた声で繰り返しながら運転する姿がとてもTらしかった。
その後も時間が空いているようなら積極的に観に行こうと思い、Tのホームページでスケジュールをチェックしていたのだが、俺自身もその後デボラ・コールマンとのツアーが始まってしまったりで、タイミングがなかなか合わず、音信も途絶えたまま約二年が経った。しかし今から約一年前、4年前と同じバーで、やっぱりNのギグに立ち寄ると、やっぱりその晩もTが参加していて、やっぱり無視したので、やっぱり俺の方から声をかけた。Tの演奏はやっぱり本当に素晴らしかった。そして「キーボードが必要な時は俺に電話しろ!」とドスの効いた声でやっぱり言っていた。
Tと話し、Tのライヴ演奏を聴いたのは、今となっては結局それが最後になってしまった。日本をツアー中の三月始め、宿泊先の都内のホテルでメールをチェックすると、Nからの短いメッセージが届いていた。「今早朝、Tが自宅のビルの屋上から飛び降り、自らの命を絶った。」...。
...T, 随分急にそっちに行っちゃったんだなぁ...。
次に一緒に演奏するチャンスがきたら、今度こそはアンタを俺のギターで喜ばせてやろうと楽しみにしていたんだけど、もうそれもできなくなってしまった。それにしてもアンタは、なんだかいつも怒っていたよね。何がそんなに気に入らなかったのかは知らないけど、そっちに行っちゃったのだから、もう怒る必要もなくなっただろ?これからは、気に入ったメンバーと気に入った音楽を、ゆーっくり楽しむといいよ。
T、お疲れさまでした。素晴らしい演奏をありがとう。
HIRO SUZUKI

俺は当分「こっち」で弾きつづけるつもりだ。
絶対にギヴ・アップしない。

気がつくと「くそぉ...」とか「畜生...」とか口走っている自分がいる。
きっと無数の「くそぉ...」、「畜生...」がこの街の空にはこだましているんだろうな。
